ジャーナリズムについての私的雑感
ただしそれは万人向きのコースではない。なかでも性格の弱い人間、ことに身分的に安定した地位にいないと精神のバランスがとれないような人間には最も不向きである。若い学者の生活にも、冒険はあるが、彼のまわりには強固な身分的な習律がはりめぐらされていて、脱線を防いでいる。ところがジャーナリストの生活はどこから見ても冒険そのもので、しかも彼はその特殊な条件の下で、おそらく他の境遇ではほとんど経験しえないような仕方で、その内的確信をテストされる。ジャーナリストの生活を続けていくうちに何度かなめる苦い経験−そんなものはおらそく最悪の事態でもなんでもない。成功した暁にこそジャーナリストには特別に困難な内的要求が課せられる。
M・ウェバーの「職業としての政治」からの引用です。
この講演で、ウェバーは、ジャーナリストとしてのキャリアーを職業的な政治活動の重要なコースの一つとして、しかしそれがどういう困難を含むか、を説いたのですが、昨日からちょっと「そういえばなんかこんな文句があったような・・・」と気になったので、備忘録もかねて。
因みに、ウェバー先生は、政治に必要な内的態度としして、情熱を重視しています。
「献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる」と。なかなか暑苦しいですね^^;
ただし、「それが仕事への奉仕として、責任性に結びつき、仕事に対する責任性が行為の決定的な基準になった」ときに人格としての政治家が生まれるので、そうでなければ「知的道化のロマンティシズム」に堕するとも、「内なる人間的な敵を不断に克服していかなければならない」とも口すっぱく注意します。
因みに、その内なる人間的な敵とは、"虚栄心"。政治家は権力を欲する、それゆえ、その権力追求が「仕事に仕える」のではなく自己目的化することを厳に戒めています。「職業の神聖な精神に対する冒涜」とか、「権力に溺れたナルシシズム」とか、中々きつい批判の言葉が続きます。
このあたり、無位無官の田園生活を至上として、乞われないかぎり朝廷に出仕することもよしとしない貴族による神聖な義務感(ノブレスオブリージュ、だったかな)でないと権力にタッチしてはいかんのだ、階層を登っていく立身出世主義に権力を預けてはいかんのだ、とまで本当は言いたげにも感じるのですが、考えすぎでしょうか・・・。
とかなんとか書いてきたのも、やはり昨日、この二つのサイトを読んだからでしょう。
finalventの日記
Irregular Expression
なんか、現場で取材したり営業している朝日の人がかわいそうにすら思える「取材の総括」な気がします。
普通、安部・中川両氏が登場するとは思えないのに、「彼らが番組を捻じ曲げた」って糾弾が行われたのは、どう贔屓目にみてもなんらかの「政治的意図」があってのことと疑われてもやむをえないでしょう。
で、そのあたり、ぶっちゃけたところを話してほしいなぁ、とも思います。