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 ■デジカメファインダー考 −忘れてはならないと思うことなど−

                          魚住耕司

 デジカメが壊れてしまった。
 先日、このメルマガの中で「水に落としたデジカメが”魔法のカ
 メラ”に大変身」というホットワイアード掲載の記事が紹介され
 ていたが、私の場合大枚はたいて買ったDimage7iが、水に落とし
 たわけでもないのに空を紫色に、建物の壁の諧調は反転描写しな
 いと気がすまないカメラになってしまった。

 修理に出して、基盤交換で一度帰ってきたのだが、よほど私とは
 相性が悪かったのか、帰ってきて三日もせぬうちに今度は電源を
 入れてもファインダーも真っ黒け、何も写さない。という状態に
 ………。

 まるで「思い通り描写させてくれないなら仕事なんかしない。あ
 んたのサイトの下手なレタッチより、私の描写の方がずっと勝っ
 ている」とでも言いたいかのような振る舞いに、いっそ手打ちに
 してくれようかと頭上高く振り上げたが、このカメラを買うため
 に一年貯金をしてきた等思い出され、またなにより粉々になった
 なら、いかに私が壊れていたことを言い募ってもメーカーは聞く
 耳を持たぬだろうことに気が付き、踏みとどまった。

 結局、里に帰すことになった。新品と交換し今現在別の個体が手
 元で忠勤(?)に励んでいるが、結局都合一ヶ月弱ほどデジカメ
 が手元にない日々を過ごした。

 デジカメがない間、では撮影もお休みにすればよいのに、撮らな
 いからといって手でも震えだすわけでもないし、べつに歴史に残
 る決定的な瞬間を撮り逃すわけでもないのに、我慢をしかねて久
 しぶりにフィルムカメラの一眼レフを引っ張り出し、肩に下げて
 撮って廻った。

 ファッションショーをしたいと駄々をこねた友人のため、ポスタ
 ー製作用に撮影した春先以来の出番である。しかしその時だって、
 彼ら(交換レンズを含める)にとってほぼ一年ぶりの就業機会だ
 った事を思えば、日常の道具としての座から、ケミカルカメラは
 既に退場して「隠居状態」、或いはモスポールされた戦艦のよう
 な存在になっていることを改めて確認した。

 もちろん、画質は今でもデジタルよりもケミカルカメラの方が抜
 きん出て良い。こと私の環境では。にもかかわらず彼らの出番が
 すっかり失われている理由は、フィルム代や現像料などかかる費
 用の違いも大きいが、それ以上に取り扱いの手軽さの違いが響い
 ている。

 私は、デジタルカメラを使いはじめたのはここ二年だが、写真を
 PC上の画像データとして扱って、鑑賞も殆どモニター画面の上で
 するようになってかれこれ八年ほどになる。デジカメを使い出す
 前にはフォトCDを愛用していたが、モニター上で眺めるようにな
 って、自分の撮った写真を仔細に見る機会も時間も格段に増えた。

 写真をプリントしたりスライドとして上映することは、はるかに
 手間も取扱いの注意も必要であり、そして費用もかかった。ケミ
 カルカメラのアナログの時代は、今からみればただ撮るだけの撮
 りっぱなしだった。

 しかし、元々何よりも「撮ること」それ自体が楽しいから写真を
 撮っているのである。どんな作品ができたかは結果であり、実は
 副次的なことなのではないだろうか。或いは「撮影する」という
 行為と生まれた「写真」とは、別だし、別の愉快をくれるものだ
 と思う。

 撮った人間は、写されてはいないファインダーの視野で切り捨て
 た周囲を知っている。ファインダーの中に「切り取った」という、
 自分の行為の一環から生まれてきたモノだ、という確信を持って
 いる。撮影者と結果である作品には、そういう描写以外のところ
 でストーリー性や連続性を保っている。その前提で作品を見て論
 じる。

 しかし、結果だけを見る別の人間には「描写されたモノ」だけが
 総てである。撮影者と同じ「風景」を見ているわけではなく別の
 「作品」を見ているのである。「作品」から浮かぶ「風景」は実
 際のそれではなく、所詮鑑賞者の心の中のそれなのだ。

 筆で作られた映像には、その作者の血肉が塗りこめられている、
 といっていい。作者の「作為」の塊である。そして、絵画の力や
 命はそこにある。だから「そこにある風景」と単純に同一視する
 人はいない。

 しかし写真だって実はそうなのである。が、表面的にはそうでは
 ない。人為が及ばない客観性がある、と思えてしまう。だから始
 末が悪い。写真に接する時、「そこにあるもの」を持ってきてい
 るのではなく「そこで作ったもの」に接している、と思うべきだ。
 そして気をつけないかぎり未知のモノを見ているつもりで「見た
 いものを見てしまう」と。

 目から入ってくる映像作品なんて、須らく最高の「太鼓もち」だ
 と思った方がよい。そういうつもりで接して始めて「よいしょ」
 ではない真実へのヒントを語りだしてくれるのだと思う。

 こんなことを書くと、「報道写真」というものを否定しているよ
 うに思われるかもしれない。しかし別にそういうわけではない。
 人の世は数限りない嘘が満ち溢れており、デマも扇動も尽きたこ
 とがない。が、同時に寸鉄人を刺す名言も、心動かされずにおら
 れぬ名言も、格調高く心を鼓舞せずんばやまぬ演説だって、同じ
 様に人の技としてあまたあるのと同じことだ、といいたいだけで
 ある。鑑賞する場合も提供する場合も映像というものへ漠然と抱
 いている「客観性信仰」に胡座をかいてはいけない。

 私は写真がデジタル化していくことで、「表現」としての接され
 方が変わっていくのではないかと考えている。世間から勝手に思
 い込まれていた「映像の客観性」というものが手枷・足枷として
 外れていくことは、けっして写真の危機ではなくて、単純に手軽
 になるとか、技法が増えるという以上に、写真に力と可能性を与
 えてくれるだろう。

 そんなことはともかく(変痴気論は私の病気みたいなものだ)久
 しぶりに使ったケミカルカメラの一眼レフは、とても撮影が楽し
 かった。その楽しさは何から来るのだろう、おそらくそれはファ
 インダーを覗く、という行為からだと思う。

 デジカメはこれからも進化するだろう。スタジオ用の高価な、或
 いは特殊なものを除いたとしても、トップクラスの製品は、もう
 35ミリのフィルムカメラに描写力で追いついたか、或いは追い抜
 いたかもしれない。

 しかし忘れて欲しくない。撮影者にはファインダーを覗きピント
 や構図をあわせてシャッターを切る、それ自体が愉悦なのだとい
 うことを。そして、デジカメの小さい液晶や流行りのEVFでは、
 その「写す」楽しみが半減してしまう。デジカメを作るとき、フ
 ァインダーをけっして利便性だけで設計して欲しくない、と声を
 大にして訴えたい。(いや、本当に訴えたいのは、ミノルタにア
 ルファデジタルを作って!!という、単純なエゴなのだが……。)

 撮影者は、写す為にファインダーを覗いているその時が、楽しい
 のである。その楽しさをもっとも味わえるカメラが、もっとも良
 いカメラなのだ。

 ところで、今デジカメなき間に撮影したスライドの扱いに困って
 いる。一々スキャンするのも手間である。一度そう思うと、やる
 気にならない。もっともよい方法は、フォトCDを作ることだろう。
 今もフォトCDは素晴らしい商品だと思っている。しかしそれは独
 身時代だったからこそできたデジタル化手法であろう。今頃、か
 つてのようにフォトCDを注文していたら、晩御飯は「冷たいコロ
 ッケ」と称したソースかけ"たわし"が登場するであろう。或いは
 サラダと称したフィルムのみじん切りも一緒に……。

                 投稿者 -北九州の恐妻家−

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