■デジクリトーク
情熱という不思議なもの
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デジクリ読者の皆さん、こんにちわ。いかがお過ごしでしょうか? 先月、風邪ひきのうわごとを書いた魚住です。およそ、どこがデジタルでどこがクリエータに関係ある? と訝しい奇っ怪な文を書いてしまいましたが、「命の創造」というものがチマチマとした惑星の上で完結するお話とは限らない、もっと広大な時空の中で織り続けられている、その布目にたまたまいるのかもしれない、などと止せばよいのに発熱頭で思っているうちに、ああいう変ちくりんなものが書きあがったという事情です。
先月の風邪、あれは智恵熱も入っていたのかもしれません。
本当は、あんな大きな話を吹くつもりではなく、彗星が宇宙のコウノトリかもしれない、と軽く紹介して、昔そんな彗星の探索者になりたかったなぁ、という話を書いてお茶を濁すつもりだったのです(^^;
彗星探索者(コメットハンター)というは、その名前の通り自分の望遠鏡で早朝薄明の始まる前、夕方太陽の残映去って後の空を監視して地球に接近する新しい彗星を探す人です。
考えてみれば、妙な世の過ごし方です。多くの場合、それで一円だって儲かる訳ではないのに、冬は寒さに耐え、夏は蚊に取り巻かれて望遠鏡にかじりつくのですから。
手に入るのは、新しい彗星を発見した時に自分の名が付くかもしれない、という、その気のない他人には誠にばかばかしいであろう名誉だけ。おまけに発見できるかどうかも運次第。また発見しても早いもの順に三名までしか名前が付かない制約もあります。探索数十時間で発見して名声が上がるかもしれないし、千時間を超え紛らわしい星雲・星団の全てを諳んじている程でも、発見できないかもしれない。一生、発見できないかもしれない。
なんと奇妙で割りの合わぬ生き方だろうかと思うのですが、要するに「好きだからやっている」という事につきるのでしょう。基本的に星を見ることそれ自体が好きだから、彗星を探している・・・。
「好きだから」という言葉を、「情熱」という言葉に置き換えるとよいのかもしれません。この不思議な個人の心の指向が、彼を動かしているのだと。
天文学という学問は、今までこういう割りに合わない生き方を選んだ、いわば「ロマンチスト」達に支えられてきました。
なぜならば、空は広くそして職業としての天文学者は、常に一握りの存在でしかないからです。(また、天文学者といっても、職業としての天文学者が、観測をするとは限らない、という事情もあります。実証の過程を宇宙空間に求めた物理学者、というのが「天文学者」の本分であり、「観測」という技術に必ずしも秀でているとは限らないのです)。
ご存知の方が多いことでしょうが、昨年来行なわれている"SETI"プロジェクト、http://setiathome.berkeley.edu/「貴方のパソコンの空き時間を異星人探しに貸してください」というあれですが、初めてこの企画について聴いた時は、天文関係者の発想だねぇ、と思いました。
何か対価がある訳でもなければ、それで異星人が見つかるという保証もない訳です。或いは将来、世界中を巻き込んだ愚行、と嘲笑して智恵誇りとする手合いもでるかもしれない(今現在ですら、いるでしょう)。
異星人の文明があり、電波を使っているかもしれないという「荒唐無稽」といわれてもしかたないような「仮説」から、その証明のために方法を考え、実行する。こういう行き方は、実はとても強靭な精神が必要なんではないか、と思います。
昔ある学者さんが学問について、
「それは、他の仕事によって”打ち破られ”時代遅れとなることをみずから欲する」「それに甘んじなければならない」
と評し、続けて「絶え間ない進歩のうちにある文明人」の生活は”終わり”というものが持てず、つぎつぎに生み出されるモノのごく一部を一時的に素早く捉えているに過ぎない故に、”生きることを厭う”ことはできても”飽く”ことができず、無意味な死を迎えざるを得ない。それゆえに、その生も無意味となる。と、トルストイの近代社会的「進歩」への意見を紹介しつつ、この時代の特性を語っていたのですが、SETIの仮説も努力も、明日には「無意味」であることが証明されるのかもしれませんし、めでたく宇宙の異星人とコンタクトが取れたなら、それ以後はこんな探索など不要となる(無意味になる)でしょう。しかし、このような今日の努力が明日は捨てられる、という事情は、何もSETIだけの事でしょうか?
「日刊デジクリ」は「クリエーター=制作者」のメディアですが、手がけているそれが何であれ、一体「無限の進歩の過去の一時期」にすぎなくなる今の為に努力するのは、苦労するのに値することなのか? 斜に構えて”批評”する方が、人生良い所取りできて「安全」というものではないのか?そういう足元が空虚になる様な虚脱感に囚われたことはないでしょうか?そのあたり、上記の学者さんは講演を、聖書を引用してこう結んでいます。
「”斥候よ、夜はなほ長きや。ものみ答えていふ、朝はきたる。されどいまはなお夜なり。汝もしとはんとおもはゝ゛、再び来れ。”かく告げられた民族はその後二千余年の長きにわたって、同じことを問い続け、おなじことを待ち続けてきた。そして、この民族の恐るべき運命はわれわれの知るところである。このことから、我々はいたずらに待ちこがれているだけでは何事もなされないという教訓を引き出そう。そしてこうした態度を改めて、自分達の仕事に就きそして”日々の要求”に-人間関係の上でもまた職業の上でも-従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護霊(デーモン)をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単に行われうるのである」と。
例えば、事務の仕事などは基本的には「誰でもできる」ものでしょう。しかし、その時その場に居合わせた以上、その人が行為するしかないでしょう。もしその人がしなかったら?当たり前に立ち行く筈のことが、立ち行かぬ事になり、ドミノ倒しよろしく、他の事にも支障が出るでしょう。
人間は、情熱という不思議なものに導かれ、やらでもの苦労も厭わぬし、逆に、当たり前の日常が不都合なく動くのも、個々人が「情熱」というこの不思議な心持ちをどこかで維持しているからでしょう。一体、情熱という心の持ちようとは、何処から来た何なのでしょうか?・・・。
いかんいかん、またデジタルともクリエーターとも無関係な投稿になってしまいましたm(..)m
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日刊デジクリ 2000/2/22 配信