■デジクリトーク
DVDと「1984年」
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プレイステーションが発売されたのは、先月だったろうか? DVDが普及するためのキラーマシンになる、という前評判が高かった。実際、キラーソフトだ、と噂された「マトリックス」の出荷枚数は、ビデオ版よりDVDの方が出足ではよかった、と聞いている。
昔、レコードがCDに置き換わるのは、何年もかかるだろう、といわれていたものだったが、CDウォークマンが登場して、あっという間にレコードは消えてしまった。録再できるDVD−RWの登場などを見ていると、遠からずビデオもそうなって、あっという間にテープだって消えていくような気がする。
音楽メディアのレコードからCDへ、映像メディアのテープ・LDからDVDへ、というようなメディアの変転のまっただ中にいることに気が付いて思ったのだが、メディアが変わった時、果たしてソフト的な資産はどれだけ受け継がれて行くのであろうか? ハード的な代替わりによって、その時の価値観でソフト的な資産が継承されない、再生できずに消滅する、ということは、どのくらいおこるのだろう?
勝海舟という人の言葉に、「ぜんたい大きな人物というものは、そんなに早く現われるものではない」というのがある。彼曰くところによると、ニ・三百年たつと、同じ位の大きな人が再び出て、その者が後先のことを考えているうちに発見して、"自分と同じことを考えた者がいた"と騒ぎ出し、ようやく世に知れるのだという。だから、芳名を千載に残すとか、臭を万世に流すというようなのはケチくさく、世に処するに誠意誠心をもって現在に応ずるだけだ、というのである。
なるほど、さすがはその場その場の表裏を見ながら判断と行動をする必要がある政治の世界の、それも動乱の時代の人の言葉だ、と思うことしきりだが、しかし、これは歴史が記録としてきちんと残り、後世からその一人の人間を「自由に自分の目で」見ることができるのが前提である。それができなければ、次のような、とても嫌な言葉を思い出さざるを得ない。
曰く、「今を支配するものが、過去も未来も支配する」。
この言葉は、たしかジョージオーウェルという作家が「1984年」の中で書いている言葉だと思う。この小説が、実に陰気な話であり、「あらゆる人間性の収奪の上に成立する不毛の世界」を描いた小説で、近代文化の言わば「暗黒面」の純化された姿を、これでもか、とばかりに描いた小説である。
主人公であるウィストンに対して、拷問をしながら「学習」を施すオブライエンという人物は、はかく言う。
「権力とは、人間の精神をずたずたに引き裂いた後、思うがままの新しい型に造り直すということだ」
「われわれは親と子、男と男、男と女という人間的な絆を断ち切って来た。もはや、妻でも子でも、また友人でも信頼するものはいなくなっている。しかし未来では、妻や子というような人間関係は存在しなくなるだろう」
「愛もなくなるだろう、”偉大な兄弟”への愛を除けば。笑いもなくなるだろう、敵を敗北させた凱歌の笑い以外は。芸術も文学も科学もなくなる」
「美と醜の区別はなくなるね。好奇心も、また生きて行く上の喜びもなくなろう。われわれの邪魔になるすべての快楽は破壊する。しかし常に、だ-この点を忘れてはいけないよ、ウィンストン-常に権力への陶酔は存在するということだ、それは絶えず増大しも絶えず鋭敏になって行くであろう。常に、あらゆる瞬間において勝利のスリルが存在し、抵抗力を失った敵を踏みつける快感があるだろう」
常に闘争が存在する。つまり倒すべき・憎むべき敵が存在する。だからこそ偉大な兄弟の偉大さは確保される、という逆説的な依存を維持する為、この世界ではご丁寧にも「ゴールドスタイン」という裏切り者で異端の首領が用意をされて、「三分間憎悪」という彼に対する憎しみと嘲笑を公然とぶつける時間が日常用意されている・・・。(どう喩えれば良いのだろう。いま現在、一番近い例は、多分『小沢一郎』という政治家にたいする日本人の論調ではないかと思う)ご丁寧な話はまだあり、この国では思想の範囲を縮小するため、ひたすら国語の改革をしている。言葉を単純にすることで「思想犯罪」を行えなくするというわけである。登場人物の一人はウィンストンに対して得意げに語る。
「チョーサー、シェークスピア、ミルトン、パイロン、彼らだって新語法版でしか存在すまい、全く異質のものに変わっているばかりではない、実際にはもとの姿とは正反対のものにさえ変わっているのだ」
「スローガンも変わるね。自由の概念が破棄されたら、「自由は屈従である」というスローガンの存在価値はあるだろうか」
「正統とは意識をもたないということになるわけさ」
(無論、このようなずけずけと物を言う舞台廻しは、先では主人公より早く粛正をされてしまう)
どうも、脱線がすぎてしまったが、この主人公が行っている仕事は、今の都合に合わせた過去の”事実”の改変の実務なのである。ようするに、今、粛正されて存在することやめた人物がいれば、彼という人間は過去にも存在しなかった、ということになり、写真や文章があれば消滅させ、改ざんし、必要なときは、新しい人物や事件を生み出す。それが採用されれば、その虚構の人物・事件は、歴史上の実在の人物・事件となるし、粛正された人間は、永遠に存在しなくなるのである。
まったくいそがしい話で、隣国の一つと同盟して別の国と戦争しているなら、過去からそうなのであり、同盟・交戦の関係が変われば、全て書き換えをして、今の都合に合わせるのである・・・。
そして、人々は、「二重思考」という方法で、この歴史改ざんの矛盾を解決してしまうし、それができない者は、粛正という人為的な淘汰がされて消えていくのである。
DVDの話から、突拍子もない小説の紹介に変わってしまったが、最初の話へと戻れば、昔なら、写真であれ手紙であれ、物理的に存在していたのである。だから、残せるのである。はるかに確実に。
が、情報がデータ化された時、再生する仕組みがなくなれば、多くの情報が、自然と消滅していくのではないか? という気がする。また、改ざんも容易になるだろうことももちろんである(この場合、国が、と決めつけない方が良い。特定の事に利害関係があり、情報をコントロールできる、他者の意見を非難圧殺できれば、誰でもできるわけです)。
こんな事を考えてしまった。十年後のある日、自分の記憶と、社会的に貯えられて流通している「記録」が、全く異なっていた。そして、自分の手元にある「記録」は、前世紀の遺物であり、もはや再生ができないマイクロカセットしかなかった・・・。さて、そんな事に立ち至ったら、私たちは一体どうしたら良いのでしょうか?
ところで、オーウェルの1984年なんぞを持ち出したのは実はつまらない理由がある。実は、近所のレンタル店が、旧テープの大処分をしていて、割引につぐ割引が行われて、結果映画作品のVHSテーブが500円くらいで買えたのである。それで、品定めしていたら、1984年に英国で制作されたこの小説の映画版があり、思わず購入して、今手元にあるからである。
昔、一度見て主人公の歯が手で引きぬかれるシーンを微かに憶えている。陰湿なストーリーだから、映画も楽しいとはいいかねるだろう。購入はした。が、果たして見る気には、いまいちならないのである。
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日刊デジクリ 2000/4/25 配信