門司港について知っている、思っている二・三のこと 

ささやかな"false note"(見当違いな意見)  

 

 

 自宅の居間でこれを書いている。
窓外ではビルの狭間に夕日が海峡へ沈む。2歳になる娘は、この時間になると窓際まで駆け寄って手を振って叫ぶ、「トントン、バイバイ」と。

 門司は、夕日が美しい。海と空を黄金に染めて対岸の下関の向こう、かつて「北九州工業地帯」と呼ばれた市内工場群の向こうに太陽が沈んでいく時間は、自然の景観が人の営みと交わる得がたい風景になる。

知っていること、など

 門司は九州の北の端、企救半島にある。そそり立つ山を背負い平地は水際に紐のように細い。
 難所とされる関門海峡を挟み、本州西端の下関と対する。瀬戸内を外と分かつ九州の入り口である。爾来交通の要所とされ、朝廷がここに「文字の関」を置いたのは大化2年という。しかし、長く衰退するに任された松林と塩田の地であった。
 門司が今に続く歴史を歩み始めたのは北九州に近代産業が育成される明治からである。特別輸出港に指定され基点となった九州鉄道が開通、日本の西の玄関として整備された。
塩田は市街となり海岸も沖まで岸壁となり、銀行や商社も進出・起業され、華奢なビルが建てられた。
 門司へ数多の人が惹きつけられた。裸一貫から門司で稼ぎ、金を貯めて大陸へ渡る夢を見た若者も闊歩していただろう。料亭や歓楽街も生まれ、昭和前期の門司は、不夜城の如く華やかに殷賑を極めていたという。
 その頃、門司は神戸や横浜に次ぐ国内4位の貿易港である。アジア近代化の先端地であり、フロンティアへの夢見る跳躍台であった。
 しかし、先の大戦で海峡は数多の機雷で封殺され市街は灰燼に帰した。敗北と冷戦で大陸と絶縁し、門司は交易相手を失う。
 関門トンネルや関門橋、山陽新幹線の開通で、本州と九州を繋ぐという古代以来の交通上の意味も失い、門司は通過中の車窓に映る景色にすぎなくなった。
 1988年、門司港駅が国の重要文化財に指定された。駅舎として初であった。これを契機に大正・昭和の残影を観光に活用する「レトロ事業」が計画され、建造物の集約・整備が行われた。現在では年間200万人余の人々が訪れる。かつての港湾の栄えとは違う形で北部九州の顔的な存在である。

門司の明日に思うこと

 ここまで書いたところで日は沈んだ。娘も騒々しい挨拶はやめて、再び積み木遊びに熱中しはじめたようだ。
 門司の将来は分からない。貴重と思う建物も風景もあるが、無主であればいずれ毀されることは防げない。そして風景は眼前から消えれば多分記憶からも消える。しかし変わっていくことは止められない。
 最近、娘が大人になったときに、この街のことをどう思い出すのだろう、と考える。
 遠い将来、世界のどこかで、娘がたまたま門司を撮った古い写真を見て、今に続く幸せの始まりの地として故郷を思い出す。というのは写真をめぐる素敵な想像である。
 そんな一枚を撮れたら、と願う。

 

「月刊フォトコンテスト」2007年5月号巻頭口絵の撮影後記として記す

平成19年(2007年)4月  魚住耕司


巻頭口絵最初の誌面 撮影ノート掲載誌面

 

門司港の歴史については、門司港運さんのサイトのこちらをどうぞ